真宗大谷派には不思議がたくさんある。
「ただ念仏申す」が教えであるはずが、道徳や倫理を主に伝える。漫談や経験談、個人的・集団的感想、道徳、倫理、演奏で伝えるから、聴衆は自然な反応として拍手をしてしまう。
しかし、拍手ではなく、念仏申すことが「正しい」と諭す。教えを伝えず、勧めず、拍手が起こって当然な場において、「拍手ではなく、念仏申しましょう」と。
僧分すら絶滅危惧種
教えを知る者さえ絶滅危惧種
僧分養成研修たる「教師修練」においてさえ、教えではなく、政治や社会の問題、道徳や倫理、宗教団体や世界にて上級信者としての真宗大谷派僧侶がいかなる地位かを教育するにとどまる。
ある知人は「教師修練では教えを教えない」と嘆いていた。教えを知らぬ者が修練を担当しているから当然といえば当然。
教えとは「南無阿弥陀仏」
ただこれだけではなく、「南無阿弥陀仏」
どこもかしこも、教養や道徳、人生観、考え方など、応用や利用が「念仏申す」ことだと思わされている。それを後押しするのは僧分などの信者だけではなく、世の中の文化人や大衆でもある。まさに歴史ある「共同幻想」であり、「念仏申す」ことを曲解されていく。
だから、私や同志はかなりマイノリティー。真宗大谷派でもかなり変人扱いされている。他の変人扱いされている方々と一括りにさえされている。
ある先輩曰く「コンセプトが異なる」んだと歎いていた。応用や利用するのは構わないが、一言付さなければいけないと思う。応用や利用するのは「コンセプトが異なる」ことになる。
ただ念仏申すのみ
彼が引用した膨大な聖教類はこれを勧める為の理論や論理であって、何かに応用や利用するのはコンセプト違いになる。現代はまさにコンセプト違いを中心に教えるものだから、拍手が起こって当然なのである。
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ