一日の始まり。
以前より1時間以上早く起きて、早めに行動する。
どこか掃除をする。
本堂で勤行をする。
ゆっくり朝食を食べる。
駅員時代、改札を通る早朝出勤組には余裕があり、ギリギリ出勤組は余裕が無さそうだったことを思い出した。
今朝は炊き込みご飯、スープ餃子、蒸しキャベツ、卵黄納豆。
一日の始まり。
以前より1時間以上早く起きて、早めに行動する。
どこか掃除をする。
本堂で勤行をする。
ゆっくり朝食を食べる。
駅員時代、改札を通る早朝出勤組には余裕があり、ギリギリ出勤組は余裕が無さそうだったことを思い出した。
今朝は炊き込みご飯、スープ餃子、蒸しキャベツ、卵黄納豆。
「自力がやみません」
という、ある僧分の返答。
なぜか、「自力」であることを判断が出来てしまう。
判断基準をなぜか持っている。
「聞法」も、なぜか、「する」ものだということを知っている。
「聞けていない」
「まだまだ」
などなど、口や頭は達者なんだw
単純に「南無阿弥陀仏」なんだが、迷宮入りしている先輩方の言動を真に受けて、同じく迷宮入りしている者も多い。
とにかく、南無阿弥陀仏なんだけどなあ。
念仏申すかどうかではなく、南無阿弥陀仏が「歓喜」なんだけどなあ。僕らには難しいことを何も要求していない。ただ念仏申すことを要求しているだけ。
文章を記憶したり、話せたり、何かしらの運動をしなければいけないわけでもない。
実にシンプルな教え(^^♪
人間は「南無阿弥陀仏」に新たな意味を込めるけれど、大儀や根拠、旗印にはできない。戦争や平和、政治や社会の運動、活動、思想などにもならない。
「南無阿弥陀仏」は何にも用意が要らないスガタ。
「自力がやみません」という思い込みや座り込みを答えにせず、単純に「南無阿弥陀仏」なんだけどなあ。
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ
先月、一つの失敗で大先輩僧侶から人格を否定された。
信仰も生活も、人格も全否定。
その内容を話したのが身内に居るというえげつなさ。
家庭内に間者がいるw
かえって、信仰面を否定されたことで「念仏一つ」が証明された。
真宗大谷派内にて、私の姿勢や聞法姿勢(教団内の特殊用語)を全否定されたことで
「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)
ということを現代においても、私自身の体験として現れてくれた。
ただし、私は一社会人でもある。改善すべきことはせねばならない。
信仰は
なむあみだぶつ
ナムアミダブツ
Nanmu Amitabha Buddha
真宗大谷派には不思議がたくさんある。
「ただ念仏申す」が教えであるはずが、道徳や倫理を主に伝える。漫談や経験談、個人的・集団的感想、道徳、倫理、演奏で伝えるから、聴衆は自然な反応として拍手をしてしまう。
しかし、拍手ではなく、念仏申すことが「正しい」と諭す。教えを伝えず、勧めず、拍手が起こって当然な場において、「拍手ではなく、念仏申しましょう」と。
僧分すら絶滅危惧種
教えを知る者さえ絶滅危惧種
僧分養成研修たる「教師修練」においてさえ、教えではなく、政治や社会の問題、道徳や倫理、宗教団体や世界にて上級信者としての真宗大谷派僧侶がいかなる地位かを教育するにとどまる。
ある知人は「教師修練では教えを教えない」と嘆いていた。教えを知らぬ者が修練を担当しているから当然といえば当然。
教えとは「南無阿弥陀仏」
ただこれだけではなく、「南無阿弥陀仏」
どこもかしこも、教養や道徳、人生観、考え方など、応用や利用が「念仏申す」ことだと思わされている。それを後押しするのは僧分などの信者だけではなく、世の中の文化人や大衆でもある。まさに歴史ある「共同幻想」であり、「念仏申す」ことを曲解されていく。
だから、私や同志はかなりマイノリティー。真宗大谷派でもかなり変人扱いされている。他の変人扱いされている方々と一括りにさえされている。
ある先輩曰く「コンセプトが異なる」んだと歎いていた。応用や利用するのは構わないが、一言付さなければいけないと思う。応用や利用するのは「コンセプトが異なる」ことになる。
ただ念仏申すのみ
彼が引用した膨大な聖教類はこれを勧める為の理論や論理であって、何かに応用や利用するのはコンセプト違いになる。現代はまさにコンセプト違いを中心に教えるものだから、拍手が起こって当然なのである。
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ
善導大師証をこい
定散二心をひるがえし
貪瞋二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ (『高僧和讃』)
特に僧分が必至こいて「二河白道」の譬喩を説かれるが、我々が内容を行じたり、教養として身に付けたり、諭したりする為に親鸞さんはご引用されたわけではない。
譬喩を説く前に譬喩を説く目的が書かれてある。
また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。(『顕浄土真実信文類三』)
つまり、我々の行いや道程ではなく、教養でもなく、単純明快に「信心守護」の為に説かれている。どれだけ、説かれようが憶えようが、「南無阿弥陀仏」が説かれているだけ。
それを現今は「人生について」だの、「必ず死ぬ」だの、「私の為」だの、我々が都合のいいように解釈して利用ばかりされている。
この譬喩が説かれる理由は「弘願の信心守護せしむ」にある。
我々から「南無阿弥陀仏」を護る為にある。
「なんで、そんなにこだわるのかわからないよね〜w」
「わかんないよね〜w」
と、小馬鹿にした感じで念仏申すことを馬鹿にする真宗大谷派の僧分たち。
「わからない」という人が多い。それを答えにして、念仏申すことを拒否さえする。念仏申すことを「出遇い」や「友や師との出遇い」などと置換さえする。なんでもあり。
「わかんないよね〜」は相手への無責任と否定、尊厳なしな態度。
僧分の仕事をせぬ。
と、ただ勧めるだけだ。
「わからない」教
「出遇い」教
「よろこび」教
などなど、応用でしかない偽教が増産されている。それも、率先して僧分が担っている。
応用や利用をするにしても、そうすることを公表しなければいけない。
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ
ただただ、これだけではなく、
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ