「自力がやみません」
という、ある僧分の返答。
なぜか、「自力」であることを判断が出来てしまう。
判断基準をなぜか持っている。
「聞法」も、なぜか、「する」ものだということを知っている。
「聞けていない」
「まだまだ」
などなど、口や頭は達者なんだw
単純に「南無阿弥陀仏」なんだが、迷宮入りしている先輩方の言動を真に受けて、同じく迷宮入りしている者も多い。
とにかく、南無阿弥陀仏なんだけどなあ。
念仏申すかどうかではなく、南無阿弥陀仏が「歓喜」なんだけどなあ。僕らには難しいことを何も要求していない。ただ念仏申すことを要求しているだけ。
文章を記憶したり、話せたり、何かしらの運動をしなければいけないわけでもない。
実にシンプルな教え(^^♪
人間は「南無阿弥陀仏」に新たな意味を込めるけれど、大儀や根拠、旗印にはできない。戦争や平和、政治や社会の運動、活動、思想などにもならない。
「南無阿弥陀仏」は何にも用意が要らないスガタ。
「自力がやみません」という思い込みや座り込みを答えにせず、単純に「南無阿弥陀仏」なんだけどなあ。
ナムアミダブツ
なむあみだぶつ