雲住記

あるお寺に住まいし者の記録

難ありな我ら

善導大師証をこい
定散二心をひるがえし
貪瞋二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ (『高僧和讃』)

特に僧分が必至こいて「二河白道」の譬喩を説かれるが、我々が内容を行じたり、教養として身に付けたり、諭したりする為に親鸞さんはご引用されたわけではない。

譬喩を説く前に譬喩を説く目的が書かれてある。

また一切往生人等に白さく、今更に行者のために、一つの譬喩を説きて信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。(『顕浄土真実信文類三』)

つまり、我々の行いや道程ではなく、教養でもなく、単純明快に「信心守護」の為に説かれている。どれだけ、説かれようが憶えようが、「南無阿弥陀仏」が説かれているだけ。

それを現今は「人生について」だの、「必ず死ぬ」だの、「私の為」だの、我々が都合のいいように解釈して利用ばかりされている。

この譬喩が説かれる理由は「弘願の信心守護せしむ」にある。

我々から「南無阿弥陀仏」を護る為にある。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏