雲住記

あるお寺に住まいし者の記録

一念歓喜

尽十方の無碍光は
 無明のやみをてらしつつ
 一念歓喜するひとを
 かならず滅度にいたらしむ(『高僧和讃親鸞)

今日、勤行の繰り読みの中でこの和讃が「ああ」と来た。

お念仏申す人=一念歓喜するひと。

出遇ったとか

先生が居るとか

いろいろと宗教体験があるとか

いろいろと知っているとか

ではなく、シンプルにお念仏申すということが一念歓喜ということ。

一念歓喜は自分がするのではなく、南無阿弥陀仏一念歓喜

喜んでみせなくとも

自慢しなくとも

声高に言わなくとも

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

と申すことが一念歓喜

とにかく

知性や理論家に成らなくていいから

なんでもないときでも

お念仏申しましょう。

なんら難しくない。

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

親鸞の姿をした偽物の横暴

親鸞さんは決して万能な方ではない。

誰かの言説と比較して、

親鸞に近い」

親鸞だ!」

など、親鸞さんの言説を基準や前提として、彼以外の言説を評価する。若干、彼以外の言説は劣るものとして述べられる。

だが、彼はお念仏申すことを勧める人であって、彼の言説は南無阿弥陀仏に全集中してある。だから、彼の文章は基準や前提でもなければ、評価基準でもない。

彼は人格者や神格化されているが、それは宗教団体や思想家の事情であって、彼は「南無阿弥陀仏」の信徒の一人であり、表現者でしかない。

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

この単純明快な行を享受したに過ぎない。

彼ではない「彼」の言説が彼として、基準や前提、応用、利用されている。

彼が本当に明らかにしたいことが分からなくなる。

誤解されすぎている親鸞

実にシンプルなことをお伝えしたいだけだと思う。

ナムアミダブツ

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490円

市内に丸刈りが税込490円のお店を発見。

いままで知らなかった。

私は丸刈り専門なので助かる。

これでもかというくらい刈り込んでくれる。

追い刈りが凄まじい。つまり、安価にしては仕事は丁寧。

そして、サイゼリヤは安定のうまさ。

ナムアミダブツ

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それでも参る

時折、境地や感想に聞こえてきて、聞法会へ行く気が失せてくる。

境地や感想ではなく、とにかく、一言だけでもお念仏申すことを勧めてほしい。

始終、社会や政治などの問題を話している先輩もいる。

私にも一応、師がいる。こういう道があることを紹介してくれた人。

師曰く

頭から生まれる人

口から生まれる人

が居るという。

生まれさせるのはお念仏だから、どちらも同じなんだけど、頭でもない政治評論家やニュースコメンテーター、慈善家、平和運動系の僧分でもない僧侶が増えた。

頭でもない僧侶が増えている。何でもありになってきた。

南無阿弥陀仏じゃなくてよくなった。

頭も口も絶滅危惧種レベル。

お願いです。

お念仏申しましょう。

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

判定や判断は誰がするのか?

口や頭では自分を「凡夫」としながら、、、

「あの方は念仏者」

「救われた」

「気づかされた」

「願心に立つ」

などなど、、、

その凡夫が判断や判定できるのか不思議。

基準はなに?

学者?

僧侶?

お念仏申すことが唯一の基準。

判定士や鑑定士、理論家に成らなくともいい。

救われなくとも

気づかなくとも

立たなくとも

念仏者に成らなくとも

ただただ

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

 

御命日

親鸞先輩の月命日は28日

「御命日」と呼んで、各地で御講がもたれている。

せっかく、御講を始めるにあたり、毎月28日に設定。

自分一人でも続けることにしている。

初回は掲示板を見たという地区総代さんが来てくれた。

その総代さんが別の地区総代さんへ連絡してくれて、自分と計3人で開始。

正信偈、同朋奉讃。

お話のかわりに、ストーブの周りで真宗十派について話し、それからフリートーク

掲示板の告知だけだから、自分一人でのスタートかと思っていたけど、初回は2人も来てくれて助かった。

親鸞さんも喜んでらっしゃると思う。

 

ほんこさん

今シーズンは残すところ一回かな?

昨日も今日も寺院報恩講へ参詣&出仕。

週明けに一か所行けば、そこで最後だろう。

今シーズンは18回のほんこさんにおあいした。

何よりも開かれることが有り難いこと。

一昨日も、出仕僧侶方へお寺の世話人方がお礼を述べておられ、私は「開いてくださってありがとうございました」と逆にお礼を述べさせてもらった。

開くまでに大変な御苦労があるわけだから、どこも開かれるだけでもかたじけないこと。

理論の理解や言葉収集をしなくとも、「出あい」という錯覚の有無に関わらず、何でもないときでも、

ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

これが阿弥陀仏の願い。

まさに「啐啄同時」(『碧巌録』)。

阿弥陀仏南無阿弥陀仏

ナムアミダブツ

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